フィアット:500中古車情報!カタログ・在庫


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 フィアット:500の概要♪


初代500

初代500は、フィアットが1936年に発表した2人乗りの超小型車である。小型車ではあるが当時としては高度なメカニズムを多数取り入れ、戦前・戦後を通じて大きな商業的成功を収めたモデルである。「トポリーノ」の愛称で親しまれた。

1930年代中期、フィアットでは1932年に発表した1,000cc小型車「バリッラ」の販売が好調な状態であったが、当時のフィアット総帥であるジョヴァンニ・アニェッリは、大衆向け自動車市場の更なる開拓を目論み、バリッラよりも小型の乗用車を市場に送り出すことを企画した。

500の開発にあたったのは、元航空機技術者のアントニオ・フェッシアを中心とするチームであった。この設計チームの中に、後にフィアットの主任技術者として数々の傑作車を開発することになるダンテ・ジアコーサがいた。

フィアットは既にバリッラで、アメリカのクライスラーの流儀に倣った油圧ブレーキと鋼製ボディを採用しており、新しいミニマムカーにおいてもその技術は活かされた。また1935年に発売された流線型の6気筒エンジン車「フィアット1500」での成果を生かし、ミニカーながら流線型のボディを採用したのも斬新であった。フィアット1500は当時としては前衛的な空力スタイルの効果で、1クラス上の旧型2,000cc車を凌ぐ性能を発揮した優秀車であり、前輪独立懸架も採用していた。

愛称である「トポリーノ」はハツカネズミの意味で、その小柄なボディと小さなエンジンで機敏に走り回るさま、そして丸みのあるボンネット脇のやや高めの位置に外付けされたヘッドライトなどによる愛嬌ある外観から名付けられたものである。


メカニズム

メカニズムは、シャーシに当時のスタンダードである、独立したフレームを持つ一方、流線型の全鋼製ボディや油圧ブレーキに加え、先端技術である前輪独立懸架を導入した、この時代の超小型車としてはきわめて贅沢なものであった。

搭載されるエンジンはサイドバルブ・2ベアリングという最低限の仕様ながら、上級車種並みの水冷4気筒となっており、569ccの排気量から13.5psを発生した。ラジエターはフロントグリルがエンジン前方で曲線を描いて後傾していることから十分な高さが取れず、エンジン後方のスカットル(バルクヘッド)直前に搭載している。

また、エンジンを前車軸前方にオーバーハングさせ、重心を前方に傾けて操縦性に配慮するとともに、ホイールベース間でドライバーが足を伸ばせる十分なスペースを確保するなどの工夫がなされていた。1934年のクライスラー・エアフローが前方荷重を高めることで操縦性と居住性を改善した成果を小型車にまで敷衍させたものと言え、ヨーロッパでも先駆的な手法を取り入れた車両だった。

ドアのヒンジは前開き・後ヒンジで、現在の乗用車とは逆方向に開く構造である。現代の安全性重視の見地からすると必ずしも好ましくないが、当時はそれよりも乗降性を重視し採用された。  


バリエーションと市場の反応

初代500Aは開発当初5,000リラという激安価格での販売が計画されていたが、高度なメカニズムを詰め込んだ結果、製造コストが想定以上にかかり、実際の販売価格は8,900リラにまで跳ね上がってしまった。それでも従来の自動車に比べれば大幅に廉価であったことからイタリアの大衆から歓迎され、イタリアの国民車として大成功を収め、戦時中の生産中断はあったものの後継車種の500B(排気量570ccのOHV・16HPエンジンに換装)にマイナーチェンジされる1948年の生産終了までに約12万2千台が生産された。

2人乗りの小型車だが、ユーザーたちはお構いなく座席後にまで無理矢理乗り込んで4人、5人乗りを敢行した。果たしてこのイタリア流の楽天的な暴挙により、固定式後車軸を支持する板バネ(1/4カンチレバーリーフ)が折れるトラブルが多発、1938年には後車軸スプリングは1/2半楕円リーフに強化されている。

フィアット資本の入ったフランスのシムカでも「シムカ5(サンク)」の名前で1937年から同型車両が生産された。フランスにおいて当時同等サイズの「3CV」級のミニカーがなかったことからヒット作となったが、戦後の1946年に「ルノー・4CV」、1948年に「シトロエン・2CV」という近似クラスの4ドア4人乗り大衆車が発売されると、2人乗りの不利さから急激に販売を減らし、1950年までに生産中止となった。

500Bのイタリア本国での売れ行きは戦後も順調で、1949年にはボンネット周りを1940年代のアメリカ車風にヘッドライトのフェンダー埋め込み化するなど近代的デザインチェンジした500Cが登場。1951年に追加された4座ワゴンタイプの「ベルベデーレ」を含むトポリーノ系列は、生産期間末期まで好調な販売を維持し、後継車種のリアエンジン車「600」(セイチェント)が発売される1955年まで生産された。

初代500の系列車は総計約60万台が生産された。


2代目 NUOVA 500(チンクェチェント)

ダンテ・ジアコーサを主任技術者として開発され、1957年に発売、以後1977年まで20年間の長期に渡り生産された、空冷エンジン・RR方式・4人乗りの小型自動車である。全長×全幅×全高は2970×1320×1325mmとなっている。

旧500(愛称トポリーノ)との区別のため、NUOVA 500(新500)と称される。初代500の後継モデルではなく、異なるコンセプトで設計からやり直した同クラス・別系統車種である。

  NUOVA 500には先行して発売されていた600のメカニズムが多くの点で流用されており、同様にモノコックボディのリアエンジン・リアドライブ車とされた。  


開発経緯

NUOVA 500の登場に先行し、新型車「600」(セイチェント)が、1955年に製造終了した初代500の後継車としてジアコーサの手で開発されていた。600は500とほぼ同等の全長ながら、リアエンジン・リアドライブ方式の採用などでスペース効率を大幅改善し、完全な5人乗り乗用車として設計されていた。

ジアコーサは600の開発にあたり、「4人乗り車の半分の費用で2人乗り車を作ることはできないのだから」という信念のもと4座化を図った。この実現のためにスペース効率や軽量化の見地からプロペラシャフトを廃した駆動方式を探り、当時前輪駆動車実現には等速ジョイントの実用性が不十分だったことから、より現実的なリアエンジン方式を採用した。

600は500にも劣らぬ人気車種となったが、フィアットはこの成功に満足していなかった。

当時のイタリアでは戦後の代替生産として航空機メーカーや鋼管メーカーがこぞってスクーター市場に進出しており、自動車を買えない大衆の「足」として大きな成功を収めていた。フィアットではこれらスクーターを代替する乗り物として、600より更に安価な乗用車を投入することが次なる需要につながると見込んでいた。

このような背景から、NUOVA 500は基本的に600を一回り縮小したモデルとして設計された。600に比べるとスペース的にかなり窮屈ではあるが、5人乗りを実現していた点も見逃せない。2人乗りだったことで競合車種に顧客を取られてしまったトポリーノ時代の反省点と、スクーターとの差別化を図るという点から重要視され、実現されたものである。

一方、ジアコーサはこれを理解しながらも、更なる小型車の開発にはあまり気乗りはしていなかった。その理由は、600こそが自身最良の回答であり、それ以下の構成では、従来車種に対して走行性能での「進化」が見込めない、と考えていたからである。それでも度重なるフィアット側の説得に折れるかたちで設計に着手したが、エンジンを空冷直列2気筒とすることには最後まで抵抗し続けた。実際にはコストや開発期間の関係から、それに変わるエンジンの調達は難しく、最終的にはジアコーサもこの条件を飲まざるを得なかった。フィアットの大々的なキャンペーンや、廉価な価格設定などの効果もあり、ふたを開けると販売が非常に好調であったことから、いつしかエンジン形式の変更の話は立ち消えとなった。そればかりか、その拡大版が126やパンダにまで使われ続ける、大変な長寿エンジンとなった。生前ジアコーサは日本の自動車趣味誌のインタビューに対し、NUOVA 500が多くの人々に愛されたことに感謝しながらも、「あのエンジンを許したことだけには悔いが残る」と語っている。


メカニズム

独立懸架機構はフロントが横置きリーフスプリングをアーム兼用としたシングルウィッシュボーン、リアがダイアゴナルスイングアクスルとコイルスプリングという組み合わせで、600の縮小コピーである。

ただしエンジンは600同様の水冷直列4気筒では高コストになるため、簡素でコンパクトなパワーユニットとして479cc・13psの空冷直列2気筒OHVエンジンが開発され、縦置き搭載されていた。最高速度は軽量なボディと相まって85km/hに達した。スプリング利用のマウントなどの配慮はあったが、やかましく振動の激しいエンジンであったため乗り心地には悪影響があり、NUOVA 500シリーズ最大の欠点になっている。遠心分離式のオイルフィルターを持っている。

車体を全鋼製としたが、空冷2気筒エンジンの騒音が屋根板のせいで車内にこもってしまうため、対策として屋根をオープンにできるキャンバストップを標準装備していた。これにより騒音は車外に発散され、居住性を改善できた。NUOVA 500のキャンバストップは機能的に必須とされたものである。


運転席

古い車なので現在の車とは使い勝手が異なる部分が多数ある。

キー:
ON/OFF/パーキング。
セルモーターはワイヤー式でレバーを引いて動作させる。シフトノブ後方に設置されている。
ワイパー:
ON/OFFのみ。
動力はエンジンのバキュームやスピードメータケーブルではなく、電気モーターにて駆動される。
初期型から最終型まで同じ仕様である。
ウインカー:
最初期型以外はハンドルのコラムスイッチにて操作する。
ガソリンタンク:
タンク容量は21リットルあり、フロントフード内に設置されている。給油時にフロントフードを開ける必要がある。
フロントフード下はトランクだがガソリンタンクとスペアタイヤで占領されており物を入れるスペースはほとんどない。
燃料計:
残量5リットルで警告灯が点灯。Lタイプには残量計が付く。
チョークレバー:
エンジン始動時に使用する。セルモーターレバーの横にある。
ハンドスロットル:
エンジン暖気のための装備。オートクルーズにならないこともないが危険なので走行中使用しないこと。

スタイリング

NUOVA 500のころころとした丸みのあるユーモラスなデザインフォルムは、設計者のジアコーサ自身が手がけたものである。もともと愛嬌のあった600のデザインを更に縮小して仕上げたような雰囲気を持っている。

ジアコーサが晩年、カーグラフィックTVのインタビューに答えて述べたところでは、自らクレイモデルを毎日撫で回すように手作業で削り出していたら、自然に出来てしまったのだという。また、独特の丸みを帯びた形状は、少しでも軽く仕上げるために、使用する鉄板を減らすべく表面積を減らす意図もあったとも語っている。

同時代の日本の軽自動車スバル・360も同様であるが、これらの小型車では、ボディの表面積を減らしつつ丸みを持たせることで、軽量化と強度を両立させる、という意図があった。鋼板は薄くても丸みを帯びたプレス加工を行うことで、補強や工程の追加なしに必要な剛性を持たせられたためである。

ジアコーサと同時代の卓越した自動車設計者であるイギリス・BMCのアレック・イシゴニスが、やはり自らのラフスケッチで著名な小型車「ミニ」のスタイリングを仕上げてしまい、デザイナーのピニンファリーナをして「いじる必要がない」と絶賛させた事例がある。機能性に優れた自動車の作り手として知られるジアコーサとイシゴニスが、ともに同様なセルフデザインのエピソードを持っているのは興味深い。 


バリエーションと市場

1957年の発売初期には、スクーターを高価下取りするという荒業の販売施策でスクーターユーザーの乗り換えを促し、それまで2輪車に乗っていたイタリアの大衆を続々と4輪車に乗り換えさせた。

1959年、排気量を500ccギリギリにまで上げ21.5psに向上させたスポーツモデル版の「スポルト」が登場している。

1960年、「スポルト」のエンジンを17.5PSにデチューンしたマイナーチェンジ版の「500D」が発売。また、水平直列2気筒エンジン搭載で荷室を確保したワゴンタイプの「ジャルディニエラ」が追加された。

1965年、「500F」を発売。新しい交通規則に対応する為、これまでの前開きドアを廃止し後ろ開きドアを採用する。これに伴い大幅に手が加えられ、フロントウィンドウの大型化・キャンバストップ開閉レバーを2ヶ所から1ヶ所に変更・キャンバストップ後方の金属屋根部を他の部との一体成型に変更(これまでは分離可能だった)・テールランプの大型化・ドライブシャフトのジョイントを強化・クラッチをコイルスプリング式からダイアフラムスプリング式に変更・ボディパネルの変更。こうした変更により、D以前の前期型とF以降の後期型と分けられる。

1968年、デラックスモデルの「500L」を発売。バンパーを補強するフロントバーが特徴だった。

この他にも数多くのバリエーション(一部にはディーラーが改造した物もあった)が発売された。

また、NUOVA 500をベースとしてエンジンやシャシーに改良を施した高性能版が、販売当時アバルトから複数種リリースされている。

1972年 低価格版の「500R」が発売。 この年より500F及び500Lは生産を終了し、最終型である500Rが発売された。同じ年に後継車種FIAT126が発売されたが、500Rはこれの下位モデルとして位置づけられた。500Rは126と同じエンジンである126.000型エンジンを搭載。このエンジンの基本的構造は500F、500Lが搭載していた110F.000型と変わらないものの、排気量は499.5ccから594ccへと大きくなり、馬力もネット18馬力から23馬力へと強力になった。しかし、コスト削減のため、トランスミッション部分はこれまでと同様のシンクロ機構のないものを搭載した。内装についても500Fと同様にシンプルになり、リアシートは固定式の取り外せないものとなった。車体構造に変化は無いが、唯一フロントエンブレムがFIATの文字のみになり、トレードマークであったヒゲのようなフロントグリル風インテリアはなくなった。最終的に500Rは30万台以上が生産された。

NUOVA 500はイタリアの国民車として人気を博したほか、ヨーロッパ全土にも輸出され、決して乗り心地は良くなかったが、価格の安さ、経済性の高さと、路地裏にまで入り込める機動性から、各地で好評を得た。少数は当時の自動車大国であったアメリカにおいても販売されている。

1977年の生産終了までに通算で約400万台が製造されている。


3代目 フィアット500

2007年に、フォードと提携し(後に登場する2代目フォード・Kaは3代目とメカニズムやプラットフォームなどを共用している)、デザインを一新して排気量も大幅に変更された新型「500」が3月23日にイタリアで発表された。

2007年中にイタリアをはじめとするヨーロッパ各国で販売が開始され、日本では2008年3月15日より販売が開始された。発売に先駆けて催された日本発表会では、当日サプライズゲストとしてルパン三世の原作者であるモンキー・パンチが登場した。新作アニメーション『ルパン三世 GREEN vs RED』の予告映像が公開され、その中で赤いジャケットを着たルパンが、新型フィアット500に乗っている姿が映し出された。

3代目となるこの「新・フィアット500」は、小さくつぶらなヘッドライトや軽くせり出した前面と丸っこい全体的なシルエット、また車内のデザインやメーターレイアウトなどにNUOVA 500の雰囲気を残すもので、フォルクスワーゲン・ニュービートルやBMWによるミニなどと同様のレトロ手法によるモデルである。

フィアット・パンダとはプラットフォーム、エンジン、トランスミッション、リアサスペンションや電装品の大部分を流用する姉妹車であり、ともにポーランド・シロンスク県で製造される。

搭載されるエンジンは1200cc・8バルブと1400cc・16バルブのガソリンエンジン、または1300cc・16バルブのディーゼルターボエンジンである。なお、パワーステアリングやオートマチックトランスミッションも用意されている。

なお、日本においては前席2名、後席2名の4名乗車とされ、後席シートは分割可倒式で、185リットルから550リットルのラゲッジルームの容量を持つ。

また、複数のエアバッグや電子制御式スタビリティコントロール、ハイドローリックブレーキアシストやアンチサブマリニングシートなどの最新の安全装備のみならず、MP3対応のカーステレオやトリップコンピューター付きマルチファンクションディスプレイなどの最新の装備、内外装の多彩なオプションが用意されていることも特徴で、2008年次のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーも受賞している。その後、フィアット500は「2009ワールド・カーデザイン・オブ・ザ・イヤー」も受賞することとなった。

参照 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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